out of control  

  


   25

 俺の頬から滴った血が、雪を赤く染めた。
 それがきっかけだった。

「ちくしょう、やっちまえ!」
「ま、待て! おかしいぞ!」

 ゆらゆらと、陽炎のように立ち上ってくる怒り……。
 俺のものじゃない。不気味に赤いその光は、怒りそのものだった。
 声にならない絶叫が頭の中で響く。
 頭を抱えて身を折った俺の膝が地面につき、突然全身の関節が外れたような激痛が走った。

「な、なんだ!? こいつ……!」
「化身? 化身なのか…!?」

 俺を殺すのなら、いい。
 でも、こいつらに手を出すのは赦さない…!!
 俺の後ろにいる黒い影を庇いながら、俺は引き裂かれた黒衣の胸元を掴み、恐ろしい痛みに喘いだ。
 約束した。今度こそ、守ると。

「お…おい、やばいぞ……」
「怯むな! ここでこいつを殺して恨みを晴らせ! こいつが王を惑わせたに決まってる! こいつさえいなくなれば…!!」

 ぎし、と、肩がありえない音を立てた。膝も。

「うわああッ!」

 翼が勝手に暴れだし、いつもなら制御できる風の魔力を馴らせない。その風が疾風の刃になって八方に飛び散った。
 魂にまで届く悲痛な旋律が耳の奥で木霊する。
 だめだ、この…音を、この男たちに聴かせたら…!!

「ニ…ゲ、ロ……」
「なんだって…!?」
「にげ……」

 ひゅうひゅうと、音にならない息のような声で言うのが精一杯だった。
 視界の色が変わる。音が消える。

「こらぁ、おまえら! そいつになにをしやがった!?」

 確かに知っているはずの声なのに、俺にはもう判別がつかなかった。
 ………痛い。痛い!
 五体が千切れてばらばらにされたようだ…!
 どうしてこんなに痛い? どうして……?
 暗闇が、俺を包み込んだ。
 長い、深い…夜のような闇だ。
 でも、恐くはない。
 ……誰かが謡っていた。
 優しい声だ。どこかリアーネに似てるような、ラフィエルに似てるような……。
 いや、性別が違うのにラフィエルに似てるっておかしいよな?
 でも…唄にこめられた包み込むような暖かさが、とても似てる。

『かわいい子。わたくしの…かわいいネサラ……』

 俺の名前?

『俺に似ても、おまえに似てもきっととんでもなく可愛いぜ。女だったら絶対に嫁にやれないな。ましてズボラで乱暴者の鷹なんてもってのほかだ!』
『あらあら、あなたは人のことを言えませんわよ』
『俺は乱暴じゃないぞ。ちょっとばかり短気なだけだ』

 どういう会話だよ。てか、同じような意味じゃないのか?
 目を開けても、なにも見えない。ただ真っ暗だ。
 でも、怖くなかった。とても暖かくて、安心して…ゆらゆらとただまどろんでいた。

『男なら俺が飛び方を教えてやる。酒の呑み方と、カードの使い方、あとはやっぱり戦い方か。女だったら…そうだな。おまえに刺繍でも習えば良いさ。鷹は困るが、おまえが惚れた男に嫁げるようにしてやるぜ。間違っても鴉王に嫁ぐなんて目には遭わさねえ』
『あなた……』
『――王妃が身罷った』
『サネルマが……あぁ……!』
『おまえの幼馴染だったな。助けてやりたかったが……』
『王宮は閉ざされていますもの……。あの娘が王に召された時から覚悟は…でも、でも……』

 悲しみが、伝わってきた。
 透き通るように深い色になって。

『あなた。どうかこの子を…ネサラを……』
『わかってるって。ネサラだけじゃねえ。俺はおまえも守る』

 固い意志が伝わる。
 やがて光に包まれて……目の前にセリノスの深くて優しい緑が広がった。
 さっきの声は……まさか、父上と母上か? 俺は夢を見てる……?
 そう自覚した瞬間、俺を包む世界が鮮明になった。
 間違いない。ここは、セリノスの緑だ。
 あぁ、クソッ! それなら、母上のお顔を見たかった。
 やっぱり知らないから見られないのか? 絵姿も残ってないからな……。
 俺はよく顔立ちは父上に、雰囲気は母上に似てると言われて育ったからな。興味があったんだ。
 だって肌の色と髪の色も同じだったんだから、もしかしたら雰囲気以上に似てる部分もあるかも知れないだろ?
 まあ一番似ている部分は蒼鴉って点だったんだろうが。
 見回した緑の森には、ほかの鷺たちの気配もあった。本当に懐かしいな……。
 しかし、どうして俺はこんな夢を見てるんだ?

「起きたのですか? 大丈夫、ここにいますよ」
「ぼっちゃま、じいもここにおりますぞ」

 勝手に声が出た。甘えるような、小さな声だ。
 不思議だな。自分の姿は自分で見られないらしい。
 聞きつけてそばに来てくれたのはラフィエルとニアルチだった。
 ゆらゆらと揺れる……ゆりかごなのか?

「兄さまー! ネサラはおきましたか?」

 そこに駆け込んできたのは、リュシオンだった。まだ舌足らずで、金色の髪も肩にやっととどくぐらいの長さだ。

「さわいではいけませんよ。ネサラがびっくりするでしょう?」
「ぼく、さわいでません! ネサラ、はやく大きくなるんだ。ぼくとあそぼう。
…あ、あそぶって! ほら、兄さま! ぼくの指をぎゅってした!」

 いや、騒いでるだろ。
  よく見たらいかにも気の強そうな表情をしてるじゃないか。もうこのころから今のような性格になる基礎ができてたらしい。
 ……鷹と暮らすようになってから影響を受けたんだと思っていたが、そういえばガキのころからあっちにもこっちにも振り回されたな。
 また景色が変わる。
 今度はどこだ? なんだ、この風は…!?

「ネサラ、泣いちゃだめだぞ! ぼくがついてる! だからこわくなんかないんだ!」

 あぁ、思い出した。
 飛べるようになって、リュシオンにセリノスの一番高い木の上に行こうとさそわれたんだ。そしたら嵐になってしまって……。
 俺はなんとか風を読むようになったばかりだった。雛にしては飛ぶのが達者だとよく褒められたもんだが、雛の翼はまだ薄くて弱い。まして鷺の雛であるリュシオンはもっと弱い。
 それでも強い雨と風から必死に俺を庇うリュシオンの手は、震えていた。
 そりゃそうだ。怖かったんだよな。だけど弱音も吐かずにずっと俺を励ましてくれていた。
 でも、雷鳴が轟いたところで悲鳴を上げた。俺も、リュシオンもだ。

「ティバー…ン……」
「あ、こら! 泣くんじゃない、ネサラ!」
「ティバーン…!」
「男の子はかんたんに泣くなって、いつもおまえの父さまが言ってるだろう!」

 いや、そんなことを言われてもな。近くに落ちた雷があまりにも恐ろしくて、幼かった俺は声を上げて泣き出した。
 夢のわりにやけに現実的だな。雨も風も痛いし冷たい。
 この時、どうして父ではなくてティバーンを呼んだのかはよくわからない。
 刷り込みだろうな。当時の鷹王についてちょくちょくセリノスに来ていたティバーンは、ヤナフといっしょによく俺たちの遊び相手をしてくれていたし、父もニアルチも忙しくてあまり会えなくなっていたから。
 冒険心旺盛なリュシオンを鷺たちはもてあまし気味で、ちょこちょこうろついては帰れなくなったりしたものだけど、そこを助けられたりもした。
 大人になった今にして考えれば、危険もないような距離しか移動できなかったんだがね。でも、初めての場所は子どもにとっては恐いものだ。
 周りの誰もが止める中、ティバーンは「どんどん行きな。ただし、冒険は俺たちがいる時だけだ」そう言って遊ばせてくれたから、逆にリュシオンはおとなしくなったんだよな。
 もちろん、指折りティバーンが来る日を待っていたけど。

「ネサラ! リュシオン!!」
「ティバーン!」
「あぶねえ、飛ぶな! 俺が行ってやるから!!」

 そうだ。覚えてる。
 そこに、本当にティバーンが来てくれた。
 たしかヤナフが見つけて、ティバーンが迎えに来てくれたんだ。あの時は本当に危なかったらしい。
 嵐の中を飛べるような技術を持ってる鳥翼族の者は少ない。戦士でもそうらしいから、もしもあの場に居たのが鷺だけなら、俺たちは嵐が静まるまで雨風に耐えながら高い木にしがみついてなくちゃいけなかったってわけだ。
 しかし、ガキってのは人の話を聞かない。
 ティバーンが来てくれたことがうれしくてすぐに木から手を離した俺が風にさらわれて、化身したティバーンがあの鉤爪で器用に俺を掴んだ。
 あの雨風の中、かすり傷もつけずにだからな。本当に飛ぶことに関してのティバーンの技術の高さは舌を巻く。 

「ふ…ふえぇ…ッ」
「よしよし、もう大丈夫だ。ネサラ、よくがんばったな。リュシオン、しっかり掴まっておけよ!」
「はい!」

 嵐の中を俺とリュシオンを助けに飛んで来てくれた。しっかりと抱きしめてくれた。
 幼心にどれほどティバーンが格好良く見えたことか、今思い出すと赤面ものだ。
 あのあと、怒られたっけな。恐かった。
 俺もリュシオンも誰かに怒鳴られるなんて経験はまだなかったし、ガキだった俺たちから見れば鷹の中でも体格が良くて、もう大人に見えていたティバーンの怒鳴り声は本当に迫力があった。
 それでも、俺もリュシオンもティバーンを嫌いになんてなれなかった。
 父には「おいおい、父さまより図体のでかい鼻たれかあ?」なんて苦笑していたが、口ではこんなことを言いながらでもティバーンのことは信用してたんだろうよ。俺とリュシオンが懐いて付いて回っても、面白くはない顔をしても引き止めたりはしなかった。
 膝に俺とリュシオンを抱えて、このころにはようやくふわふわ浮かべるようになったリアーネを頭に乗せて、慣れない様子で本の読み聞かせをしてくれたティバーンを、当時の鷹王と並んで笑って見てたりな。
 でも、あの大冒険の夜は、父もニアルチもいなかった。俺はまだまだ夜が恐い時期で、本当に心細かったのを覚えてる。
 もちろん、幼心にもそんなことを訴えるのはわがままだと自覚もしていたから、我慢して寝たんだ。
 朝になれば平気になる。そう思っていたのに、夢でまた恐い思いをした。
 空も、風も、父に抱かれて飛ぶうちは俺を傷つけるものじゃなかった。広くて雄大で、翼がある者の誇りのような、そんなものを教えてくれる場所だと思っていた。
 だけど本当はとても恐い場所なんだ。翼を痛めたら、もうまっさかさまに墜ちるしかない。そう思い知って恐くなってしまって、うなされて飛び起きたら寝小便までしていた。
 外はまだ暗い。父もニアルチもいない。今夜はいっしょに寝ようかと誘ってくれたラフィエルといっしょに寝れば良かった。後悔したね。
 なにより、冷たくて寒い。いろんな気持ちが重なってまた泣き出したところで、ランプを片手にティバーンが来てくれた。もう少し大きくなってからわかったことだが、リュシオンも不安で眠れないからラフィエルがそばについていて、ティバーンが俺を引き受けてくれたって話だった。
 あのころ、ニンゲンが鷺を狙ってよくセリノスに侵入していたから、本当ならティバーンはヤナフと交代で見張りをしなくちゃいけなかったのに……。
 結局俺たちの冒険は、いろんな人に迷惑をかけるだけのものでしかなかったんだよな。

「どうした?」

 それなのに、寝小便なんてしたのがばれたらまた叱られる。
 そう思うといっそう泣けて小さくなった俺を、ティバーンは叱ったりしなかった。

「ありゃ、なんだよ。隣の部屋にいるって言ったろ? 漏らす前に起こしに来りゃ良かったのに…って、もしかして寝小便か?」
「ご…ごめんなさ……」
「謝るなよ。悪かったな。ジイさんにもうしねえって聞いてたから油断しちまった。任せとけ。自慢じゃねえが、俺はこういうことの隠蔽工作は大の得意だ」

 そう言ってにやりと笑ったティバーンは言葉通り、てきぱきと後始末をしてくれた。後でヤナフが笑いながら教えてくれたが、ティバーンは大きな図体をしてるくせに、かなり遅くまで寝小便が直らなかったから手馴れていたらしい。
 本当に、このころは疑問にも思わなかったな。俺は鴉なのに、どうしてセリノスにいるんだろうって。
 キルヴァスには数えるほどしか行っていない。海峡の風が厳しいからだとニアルチは言っていたが、それだけが理由じゃないだろうな。
 フェニキスにも行ったことがある。一度だけ、父に連れられてだが。
 セリノスの緑と、幾度か見たキルヴァスの赤茶けた風景しか見たことのない俺の目には、本当に鮮烈な風景だった。
 海の青さと空の青さは変わらない。でも、咲き乱れる花や木々も鮮やかで、色が濃くて……。
 父はガリアはもっと凄いと言っていたな。深い緑は滴るように濃く、空気も濃密で、まさに密林と呼ぶに相応しい森がどこまでも広がっていると。
 そのガリアを見ることができたのは鴉王になってからだ。

「ニアルチ?」
「ぼっちゃま……これはこれは。どうしました? 眠れませんかな?」

 またセリノスの部屋だ。
 これも覚えてる。
 フェニキスから帰ってきて、セリノスで…ニアルチが塞ぎ込むことが多くなった辺りだ。今日も父はいない。

「父さまは? 今日もかえってきてくれないの?」
「お仕事が忙しいのです。さ、もうお休みなされ。おや、その花はどうなさいました?」
「リアーネが耳のとこにさしてくれた。ティバーンに聞いたからあげるって。そろそろお水につけないとしおれちゃうってラフィエルがおしえてくれたから持ってきた」

 幼い俺が持っているのはセリノスに咲く白い花だ。王宮の庭にあるものだった。夜になるとぼんやり光るんだ。
 あの庭もあの虐殺の時に燃やされたんだよな。ラフィエルやリアーネががんばって謡ってるけど、焼けた種が芽吹くかはわからないとロライゼ様が言っていた。
 そう言えば、このころからリアーネも気が強かった。言い出したら聞かないんだ。
 ふわふわと綿毛みたいに柔らかな金髪で、春の緑のような大きな目で、いつも舌足らずに呼んでくれた。
 もっと幼いころはにこにこよたよた寄って来て、ぺっとりくっつくものだからよだれをつけられて困ったな。
 いや、可愛いんだが、俺も雛だった。大体、歳も一つぐらいしか変わらないし、鳥翼族の一歳違いなんて年齢差がないも同然だ。お互いに未熟で意思の疎通もままならない。どうすれば良いかわからなかったんだ。
 もちろん邪険にはしなかったが、俺に頭を擦り付けようとしてきては加減が下手で、しょっちゅう頭突きをされて、よく泣かされたことも覚えてる。
 しかもリアーネの方は鷺のくせにけっこう平気なんだよな。
 俺が泣き出したら不思議そうな顔をして、俺が泣きやまなかったらリアーネまで泣き出して、面倒を見ていた周りはさぞうっとうしかったに違いない。

「ティバーンどのが…おやおや、それはそれは」

 急に笑い出したニアルチが不思議で幼い俺が首をかしげると、ニアルチは俺の握った花を恭しく取ってグラスに挿して言ったんだ。

「フェニキスの風習ですな。結婚を申し込む時に、相手の耳元に花を飾るのです。しかし、白い花は女性側に飾るものですが……まあ、セリノスには赤い花が少ないですからな」
「赤いお花もあったよ? 王宮のお庭であそんでたんだもの」

 そう言うとニアルチは窪んだ目をますます丸くして、本格的に笑い出した。

「それは…さすがはリアーネお嬢さまでございますな…! そうですか。ジイもうれしゅうございますぞ」

 そう言えば遊んでいる時に、ティバーンが説明してた気がする。ティバーンの知り合いが結婚したって話から結婚ってなんだと訊かれて、ちょっと困った感じで一生懸命考えて、「ずっと、いっしょにいようって約束だな!」なんて、歯の浮くようなことを言っていた。
 考えてみたらあのころはもうティバーンはほとんど大人だったものな。あれやこれや、子どもに言えないことでも考えて説明に困ったんだろうさ。
 それにしても……そうか。あれは求婚だったのか。
 リアーネはやっぱり可愛いことをしてくれる。そんな約束しなくても、鷺は俺の家族だ。俺はずっといっしょにいるのに。
 そのつもりだったのにな……。
 もう少し大きくなると、俺はすっかり飛ぶことに関してだけは一人前になったつもりで危ない目にも遭った。
 このころ、ちょくちょくセリノスにタチの悪いニンゲンが入り込むという話を聞いて覚えていた。よくヤナフやティバーン、ほかの鷹の戦士、それから時にはセリノスを尋ねてきた鴉も見回りをするから、俺も手伝おうと思ったんだ。
 ……いや、そんな格好の良いものじゃなかったな。好奇心が一番の理由だった。
 だが、いざそのニンゲンに対峙してわかった。あいつらは物見遊山の招かざる客人じゃない。奴隷狩りだったんだ。
 相手は数人、俺は一人。しかもまだ雛と言ってもいいような子どもだ。
 それも珍しい蒼鴉だということで色めき立った奴隷商人に追い掛け回され、危ないところをまたティバーンに助けられた。
 あの時も、確か呼んだんだよな。弓で狙われてかわしたところに、細い紐で編んだ網を投げられて墜ちそうになったところを捕まえられた。
 そこに緑の閃光のように飛び込んできたのがティバーンだった。後から思えば、あの時はウルキがいたからたぶん俺の悲鳴が聞こえたんだろう。
 激昂したティバーンは俺を片腕に抱えたまま、あっさりとニンゲンどもを追い返した。あいつらをセリノスの森から叩き出した後は、追いついてきたウルキに俺をわたして、這う這うの体で逃げようとした連中の前に立ちはだかり、文字通り血祭りに上げたんだ。
 森の中で「負」の気や血を撒き散らすことはできないが、外でならってことだったんだろうな。
 中には小山のような大男もいたのに、しかも弩を持っていたのに、本当に鮮やかだったさ。一度ティバーンが撃たれたと思って俺が悲鳴を上げたんだが、緑に輝く翼で弾き返して反対に相手を八つ裂きにした時は、興奮した。

「ったく、手応えのねえ連中だったぜ」
「そんなものはいらない…子どもが見ている前だぞ。ティバーン……」

 でも、無傷じゃ済まなかった。頬を掠めた鏃の痕から血が流れていて、ぺろりと舐めて拳で拭ったティバーンは、ところどころ浴びた返り血も相俟って野蛮なんてものじゃなかった。
 子どもの目から見れば、それこそ悪鬼か暴漢かって有様だ。

「俺が恐いか?」

 戦闘直後だ。俺の前にしゃがんで笑った双眸に宿る光は、金色の炎のように強い。
 だけど吸い込まれそうに、俺の目は引きつけられた。
 鷺の民は真っ赤な花を避ける者も多い。赤だけじゃなくて、強烈な色彩を。
 王族である白鷺はそれも良い刺激だと言って受け入れるけど、ほかの鷺は大体がそうだ。
 俺は、自分の感覚は鷺寄りだと思っていた。でも確かに鴉なんだろう。
 堪らなく憧れて、興奮で胸が高鳴る思いでそんなティバーンに首を振ると、俺は自分にも血がつくことなんて考えもしないでかじりついた。

「おまえが呼んだら、必ず飛んで来るって言っただろ?」

 言葉もなく必死に頷く俺に笑いながら俺を抱きしめて言ってくれたな。
 あのころのティバーンは俺にとっては、本当に英雄そのものだった。
 父も強かったし、戦い方も綺麗なのに、どうしてあんなにティバーンに惹かれたのかは今でもわからない。
 父は自分に返り血がかかるような戦い方はしないし、目にも留まらない速さで相手を翻弄して、急所に一撃で決める。それは鳥翼族のお手本のように見事な戦い方だ。
 ティバーンはもっと野蛮だった。もしかしたら自分一人なら返り血も浴びずに終らせたのかも知れない。でも、なによりも俺を庇って血を流しても平然と笑ったティバーンの姿は頼もしかったんだ。
 まあ、優しく抱きしめてくれたのは一時だけで、それからすぐにまた一人で危ないことをするなって怒鳴られて泣くはめになったんだけどな。
 それからしばらくして鷹王になって……なかなか会えなくなった。
 リュシオンも楽しみにしてたんだ。ティバーンが鷹王になるのは、とても似合ってるから。だから、二人でお祝いを言わなくちゃいけないって。
 久しぶりに会えた時にはうれしくて、ティバーンの腕を取り合った。ティバーンもそんな俺たちに優しくて、ヤナフといっしょにいろんな冒険の話を教えてくれたりしたっけな。
 セリノスでの日々は、どれもがまるで砂糖菓子のように甘い思い出として残ってる。
 そんな日々がこれからも続くことを疑ってなかった。今思ってものん気なガキだったな。本当に……。
 ある日、父が死んだ。俺が鴉王になる序曲が始まったってところか。わけがわからなくてぽっかりと空いた胸の隙間を埋める間もなく、ラフィエルまでいなくなった。
 それから何年も経って俺が鴉王を継ぐかどうするかって話が出た時に、初めて父が王に謀反を企てていたから処刑されたという事情を聞いた。
 ―――おかしい。
 事情を聞いて、真っ先に俺の頭に思い浮かんだのはその一言だ。
 確かに父は破天荒な男だった。だが、考えのない男じゃない。
 なにかがあったんだ。
 それだけはわかったが、ニアルチも、当時の鴉王もそれ以上のことは教えてくれなかった。
 もっと幼いころには笑顔で俺を可愛がってくれた鴉王が、あのころには恐ろしく衰弱していた。
 それから、セリノスが燃えて、鷺がいなくなって……鴉王も、いよいよ最後の時を迎えようとしていた。
 俺ももう子どもじゃない。父が居なくなってからキルヴァスに移り、書庫に残された膨大な書物の内容を頭に詰め込み、戦闘技術も磨いた。
 王位に就くのは、本当なら誉れ高いことのはずだ。ティバーンが鷹王になる話をしていた時、それは誇らしげだった。ヤナフも、口数の少ないウルキでさえ、我がことのように胸を張っていた。
 だが、キルヴァスはどうだ?
 張りぼてでもなんでも構わない。とにかく「王」としての体面を作るための、あれは作業のような日々だった。
 俺は元々戦闘なんか好きじゃない。争いごとなんて、しないで済んだらそれが一番だ。
 鷺に感化されたわけじゃないぞ。なんでもかんでも力ずくって様子の鷹を見ていると、頭を使って切り抜けられることはそうすればいいのにと思うようになったんだ。
 大体、身体を使ったら腹が減る。力ずくで解決したがる連中が多いところってのは、もしかして食い物が豊かだからじゃないのかとまで考えたね。
 それでもだ。
 俺が王位に就くのはまだ先だと思っていた。なによりも若すぎる。
 確かに鴉王の在位は短い。早ければ一年経たずに、長くても二十年で限界か。
 それを考えてまだガキだった俺にもお鉢が回ってきたんだろうが、この時もまず側近が継ぐはずだから、どんなに早くてもその次の代だと思っていた。
 ラフィエルのことはもちろん、セリノスのことは本当に悔しかった。母のように思っていたリリアーナ様や、リーリア、幼かったリアーネ……。生き残ったのは昏睡状態から目覚めないロライゼ様と、幼馴染のリュシオンだけ。
 俺の怒りだけじゃない。リュシオンの悲しみ、鷺たちの痛みをニンゲンどもに思い知らせてやるために、今はまず力をつけることだ。こんなガキじゃ、見かけだけでまず取り合ってももらえない。
 そんなつもりでいたんだが………。
 あの夜のことは、今でも覚えている。いや、一生忘れられないだろう。
 数日前から王宮の動きがおかしかった。俺はただいよいよ鴉王の代替わりだろう。近日中に新しい鴉王にご挨拶に伺わなくちゃならないな。その程度に考えていた。
 夜半過ぎに、急に左の手首が熱くなった。まるで燃えているように。
 もちろん本当に燃えているわけじゃないんだが、まるで焼けた火箸を押し当てられたような異様な痛みが走って、俺は飛び起きて手首を見た。
 赤い、禍々しいあの光が少しずつ浮かび上がり始めていた。
 このころにはもう大抵図太くなったつもりだったが、それでもあれには驚いたし、恐ろしかった。
 匂いもなにもない。ただ、赤い線が奇妙な模様を描いていくたび焼かれる痛みが走って、俺はうめき声を堪えながら搾り出すような声でニアルチを呼んだ。
 痛みが我慢できなかったって言うより、一体なにが起こってるのかを知りたかったからだ。
 だが、ニアルチは来なかった。痛みで泣き喚くなんて年頃はとうに過ぎてた。転げまわることもできずに、全身を脂汗で濡らしながら突っ伏して長い時間をただ耐えて、嘘のように痛みが引いた後には、あの忌々しい誓約の印がくっきりと手首に浮かび上がっていたんだ。
 あのころから魔力はあったからな。なにかのまじないみたいなものだろうかと首をかしげながら赤く光を帯びた手首を眺めていると、慌しく廊下を飛んでくる気配があって、「ぼっちゃま!」と、叫びながらニアルチが飛び込んできた。
 なんだ、呼んでも来なかったのはいなかったからか。それにしても、こんな夜中に騒いで俺を起こすなんて過保護なニアルチにしては珍しい。
 のん気にそんなことを考えながら寝台に座り込んだままニアルチを見ると、ニアルチは俺の手首に浮かんだ誓約の印を見つけて、ぶるぶると震え出した。

「ニアルチ?」

 いきなり浮かび上がった奇妙な模様のことも聞きたいが、それよりも汗でびっしょりだからお湯を使いたい。

「おおお…なんという……」

 そう思って小さなころのように首を傾げて呼ぶと、ニアルチはしばらく節くれた皺だらけの手で自分の顔を覆い、呻くようになにか言ってよろよろと俺に近づいてきた。
 びっくりしたさ。ニアルチはもう年寄りだし、もしかしたらどこか悪くしたんじゃないかってな。
 だが……。

「ぼっちゃま…! ぼっちゃまになぜこの印が……早すぎる。女神よ、これはあんまりではございませぬか…!!」
「ニアルチ、どうしたんだ?」
「ぼっちゃま…! お可哀想に……ぼっちゃま……!!」

 俺の前に崩れ落ち、誓約の印が浮かんだ左手に縋るように、それからニアルチはただむせび泣いた。
 これも後に知った話だが、王が崩御なさった後、側近に印が移らなかったそうだ。
 理由はわからない。王が俺を跡取りだと明言したからなのか、それとも側近だった男に王たる素質がないと誓約がみなしたのか。
 今なら、後者だと思うね。側近の男も強かったし、頭も良かった。だが、王と共に長い間誓約のことで苦しみ、弱っていたんだ。心も、身体も……。
 それが証拠に、俺に印が浮かび上がったことに仰天し、涙ながらに詫びて、いろいろなことを教えてくれた。もちろん、この印がなにを意味するのか、これからなにをしなければいけないのかを。
 そして、側近だった男も、それから数日も経たないうちに伴侶とも言える王の後を追うようにして亡くなった。
 ………ニアルチも、あの側近も、俺を哀れだと言った。
 まだ子どもなのに、こんなものを背負うなんて可哀想過ぎると。
 でも、そうなのか? 俺はそうは思わない。
 もっと可哀想なのは、死んでいった今までの王と、そしてわけのわからない呪いの病で命を落した鴉たち、そしてこれからは……いや、これからも、人質となって、俺のような若造の采配一つで生死の決まる民だ。
 恐かった。
 正直に言うが、恐かったさ。
 確かに鴉王になる覚悟はしていた。だが、その覚悟はこんな誓約を背負ってニンゲンどもの暴挙を受け止め、民に被害が及ばないように知恵を振り絞ることに対してじゃない。
 ただ貧しいキルヴァスをどう支えるか、その器用さを、根気強さを活かした仕事をさせたい。そうやって外貨を稼いで食料を買ったり、もっと知恵をつけて、できればいつまでも兄貴風を吹かすフェニキスの連中になんらかの知識なり技術を売りつけてやりたい。
 そして行く行くはキルヴァスを豊かな国にして、俺の家族だった鷺たちにあんなことをしやがった責任をニンゲンどもに突きつけ、思いしらせてやる。
 そんな青臭い理想だけを胸に掲げていた。
 もちろん、俺も父のようにキルヴァスにはなにかあるとは考えていたが、まさかこんなもんが出てくるなんて予想外だったしな。
 そしてわかった。恐らく父が謀反を起こそうとした理由はこのことにあると。
 短気な父のことだ。ベグニオンに殴りこみでも掛けると思われたんだろうな。
 ニアルチははっきり言わなかったが、きっとそういうことだと思う。
 そして、側近の男に合わせて作られていた鴉王の証である黒衣を急遽手直しして、慌しく俺の戴冠が行われた。本来だったらラグズの王を呼んでそれなりの規模で行うべきことだったが、そんな時間はない。
 代替わりをしたなら、三日以内にベグニオンの元老院に挨拶に出向かなきゃならない決まりだったし、それを示すように手首の印が赤く光を帯びていたからだ。
 遅れて書状で俺の戴冠を伝えたが、それについてどうこう文句は返ってこなかった。内輪だけでやった理由として、王の急死と後を継ぐ立場だった側近の深刻な体調不良、なによりセリノスの悲劇の後で華々しいことをする気になれなかったと俺が書状に書いたからだ。

「ぼっちゃま…このじいめもどうか共に」
「いらん。年寄りを連れて行くようなとこじゃないだろ」
「ですが、行ったことがございませんでしょう? どうか、ぼっちゃま」
「いいから待ってろ。この中で王のベグニオン行きに同行したことがある者は?」

 出立の日、誰もが不安そうだった。
 血の誓約のことを知っている人数は限られる。いずれも前王の信頼厚い者たちではあったが、印が移ったのが俺みたいな子どもだなんて、そりゃどれだけ不安だったことか。
 俺の呼びかけに手を上げたのは全員だ。
 一番早く、勢い良く手を上げたのは俺よりも少し年上の蒼鴉で、それがシーカーだった。

「おまえは…蒼鴉か」
「はい!」
「化身するとニンゲンには見分けがつかなさそうだな。おまえは留守を守れ。おまえにしかできない仕事もありそうだ」
「は、はい」

 俺の命令に、目を瞬きながらもシーカーが引き下がる。選んだのは、この中で一番年上の男だった。

「確か王の側近の……」
「兄です。どうぞわたくしめに案内させてください。わたくしはたとえ嵐の日でも王について飛ぶことができます」

 この時には、この男の言葉を余り深く考えなかった。ただそれだけ飛ぶことに自信があるんだろう。そう考えて言ったんだ。

「よし、おまえが案内しろ。他の者は来るな」

 生まれて初めて見たベグニオンは、とてつもなく大きく、白く、そして優美だった。
 国としての規模が違う。息を呑んで見入った俺に、口数の少ない男が教えてくれた。

「このベグニオンの首都シエネは、このテリウスで最も繁栄している大きな都市です。元老院などは別として、国として見習うべきところが多くあると……」
「そうだろうな。これだけの規模なら、民の数も多い。ベグニオンはその民の腹を満たせるということか……」

 白くて美しい、豊かな都。
 かたや俺は赤茶けて乾いた、貧しい国の王だ。
 ………この国を牛耳る連中と渡り合わなくちゃならないのか。
 覚悟なんて決まっていない。だが、俺がやるしかない。
 一つ息を吸うと、俺はここまでついてきた男を帰し、ベグニオンの中枢、白く巨大な大神殿に向かった。

「…………ほう」
「これはこれは」

 中庭に降り立つと、表情のない奴隷の虎の男が俺を中へ導いた。
 今思い返しても、胸糞が悪い。
 ニンゲンは室内で飛ばれることを嫌う。だから歩いて入ってきた俺の顔を見て、まず反応したのはまだ若かったルカンと当時の元老院議長だった。

「お初にお目にかかります。元老院の方々。第十八代鴉王でございます」
「なんと…まだ子どもではないか……」

 日記で読んだ通り、片膝をついて挨拶の口上を述べると、このころから禿げはじめていたヘッツェルが目を見開き、さも同情した様子で言った。
 ほかの連中は、ただ好奇心を剥き出しに頭のてっぺんから爪先までじろじろ見ていた。

「これが新しい鴉王とはな。さて、困りましたなあ。このような子どもで果たして我らの役に立つのやら」
「そなた、字は読めるのか? 地図は?」
「やれやれ、美しい娘を連れて来いと言ったところで、意味もわかりそうにないな」

 次々と降って来た嘲笑の言葉はもちろん面白くはなかったが、腹は立たなかった。ただ呆れただけだ。
 字が読めなくて王が務まるか?
 確かにラグズは獣の姿に化身する。
 もしかして知能も獣と同じぐらいだと思っているのか? いや、それぐらいに振舞うべきなのか……。

「!」

 だが、なにか答えるべきだろうかと迷って顔を上げなかった俺の髪が、いきなり鷲づかみにされた。
 痛くてびっくりしながら顔を上げると、この当時、この中ではそこそこの権勢を誇っていた男が粘ついた視線で俺の顔を間近で見ていた。

「見れば見るほど、夜の化身のようだな。纏う色は蒼く肌は象の牙のように白い。声も良さそうだな?」

 なんだ? なんだ、こいつは?
 気味が悪くて突き飛ばしたかったが、それは我慢した。顔に掛かった息が臭い。

「人で言うところでは十四、五といったところか。こんな見目でも我らと変わらぬほど生きているというのが不思議でならぬ。女神も不思議な生き物をお作りたもうたものよ」

 堪らず顔を背けた俺の頬を撫でた指にごてごてとはめられた指輪の金属が痛かった。

「戯れはその辺りでやめてくれませんかな。アハヴォ殿の手に掛かるとすぐに奴隷が壊れる。代替わりで来た今回の鴉王の歳を見れば鴉どもの人手不足はわかるでしょう。自重なされよ」
「左様。この小僧が死んだら次はいよいよ赤ん坊が這って来るかも知れませんぞ。……おっと、鴉は這わぬか」

 よく言うぜ。その子どもが王位につかなきゃならないほど、キルヴァスの王を殺してきたくせに…!

「はい。ですからどうぞ、俺に仕事を全うさせていただきたく存じます」

 むかむかしたが、顔には出せない。殊勝に姿勢を正すと、それまで黙っていた暗い気配の男が刃物で俺の背中を撫でるような口調で言った。

「我らに仕えるのがそなたらの仕事だ。子守などさせようものなら鴉の国そのものが必要ではなくなろうな」

 ………言われなくても、肝に銘じるさ。
 それから俺の奴隷生活が始まった。
 最初は、ただ必死だった。
 元老院に仕えなきゃいけないと聞いていたから、こいつらの命令をひたすら聞いてご機嫌を取るのが最優先なのは間違いないんだが、その中には内部の権力争いに関しての命令も多く含まれていて、肝を冷やした。
 血の誓約の一番の掟として元老院に逆らわないというものがある。だったら、いくら元老院議員の命令でも同じ議員を陥れるような真似をして大丈夫なのか? ということだ。
 読んだ日記の内容を思い出しても、その疑問は記されていた。だが、疑問だけで呪いが出ていないなら大丈夫…なんだろうな。そう信じるしかない。
 最初のころの俺は、そつなく命令をこなすことに必死で、今の元老院議員の力関係や、成り代わりたい貴族連中のことをまだ良く把握しきれていなかった。
 前王はある程度考えて書いてはいたが、情報としてはまったく不十分だ。ある程度連中の力の均衡が取れちまってたってのも大きい。
 なにより、慎重だった。少しでも呪いが発動するかも知れないようなことは避けたから、権力争いについてはなるべく触れなかったってところだろう。
 だが、俺はそうは行かない。
 今日はルカンの命令でアハヴォの弱みを握って報告したかと思うと、次の日にはそれが逆になる。
 アハヴォは俺の前でよく奴隷を犯した。それも子どもと言ってもいいような者ばかり、性別もこだわりなくだ。
 それだけじゃない。一度そういうことをした後は、お払い箱だ。その場で殺された者はまだ幸せだと言っても良いような真似をされた。
 初めて見せ付けられた時は悲鳴も上げられずに固まったさ。ラグズの性教育については種族間で差があるが、鴉は早い方だ。
 だからそれが子作りの行為であることは知ってる。
 だが、あんな無理強いを……。
 必死で何度も止めた。いっそするなら俺にしてくれと懇願した。
 だが、聞き入れられなかった。
 子どもを好んで慰み者にするのはこいつに限った話じゃない。他の連中だって似たようなことはしていたが、それでもあいつのようにする度にその奴隷を殺すなんて真似はしない。しかも、経験のない者ばかりを。
 政治的手腕は悪くないし、民衆にはむしろ人気のある男だった。このころの元老院はもうぐだぐだで、政治能力を持ってる者は限られていたからな。
 だから元老院としてはあの男を残しておきたかったんだろうが、俺は嫌だ。
 一番の敵対者はルカンだった。俺は、双方から情報を取る立場にある。二人とも能力はないくせに自己顕示欲ばかりご立派な連中からも目の敵にされていたから、俺は少しずつ情報を改ざんし、一年かけてアハヴォを失脚させることに成功した。
 権力がなくなると、惨めだな。あっという間に濡れ衣なのか真実なのか、あれこれと罪を被って死罪だ。
 民衆もあれだけちやほやしていたくせに、罪状を読んだとたんに手のひらを返して、聖職に就く犯罪者の収容される立つ事も座ることも出来ない檻に入れられて晒されたアハヴォに石を投げる始末だった。
 ……これだからニンゲンってのは嫌いだ。ずいぶん薄っぺらい信用もあったものだぜ。
 若かったからな。広場の様子を見て、そんな青臭いことを考えていたね。
 俺は違うが、ラグズにとっての信用や信頼は、簡単には覆らないものだ。だがベオクってのは寿命が短い。その分気も短くないとやっていけないんだろう。そう思うことにした。
 元老院の連中が揃いも揃って気が短かったからというのもあるがな。
 ただ、このころのことは、後から失敗したと思った。
 この件があってある程度は俺にとって都合の良い者にそれとなく肩入れして、面倒な者は失脚させればいいってことに気がついたが、まだまだ腹芸が下手でな。
 その辺りのことを先に勉強して、最初から考えて動けば良かった。今でもそう思ってる。
 もちろん、潰したかったのはルカンだ。
 あのルカンを失脚させたところで次に繋がる者の顔ぶれを考えると、もっと深刻な事態になりそうで結局できなかったんだがな。
 神経をすり減らす毎日が続き、癇癪を起こした連中に殴られるのも、蹴られるのも、鞭打たれるのも、翼をへし折られるのにも馴れたころ、久しぶりにティバーンに会った。

「ネサラ……」

 俺がいつまでも挨拶に現れねえから、痺れを切らしたらしいな。
 冬で良かった。海峡の風が荒れるから、リュシオンは来られない。
 ちょっと怒っていたらしい雰囲気だったティバーンは、俺を見て眉をひそめた。
 なんて答えればいいんだ? 「久しぶり」か? 「元気そうだな」か?
 なにも思いつかなくて黙って突っ立っていると、ヤナフとウルキ、他数人の鷹が戴冠祝いだと称して運び込んだ持ちきれないほどの食料を置き、ティバーンが俺に歩み寄った。
 そして、挨拶の口上もなく、いきなり抱きしめられたんだ。
 一瞬、肝が冷えたさ。
 今回は帰る前にずいぶん鞭打たれたが、いつもと同じようにリカバーで治されている。血の付いた黒衣も着替えた。
 でも、鷹は獣牙族の次に鼻が良い。特に血の匂いは特別だ。
 だからなにかばれたのかと思って心配した。

「ちゃんと寝て、食ってるのか?」

 でも、違ったようだな。
 そう言えば忘れていた。ティバーンにとって俺はまだ鴉王じゃない。
 父親を亡くして、家族と同様だった鷺を亡くして、王を亡くして、いきなりその後を継がされた昔馴染みの鴉の雛だったんだ。
 大きな手に肩を、背中を撫でられて、俺はなにも言えなかった。言う必要も感じなかった。
 ただ、幼いころはあれほど頼もしかったティバーンの腕の中にいるのに、なんの感動もない自分に驚いた。
 そして、恐い時にこの男の名を呼ぶことも忘れていたことを改めて思い出したかな。
 呼んじゃいけない。巻き込むことになる。
 それにもう、俺は子どもじゃないんだ。誰かに頼ることはできない。心を読めるリュシオンにだって会えない。
 俺は、自分の力でなんとかキルヴァスを、そして鴉を守らなくちゃいけなかった。
 涙なんて涸れていた。父が死んだ時から流していない。誓約の恐怖に怯えた夜だって泣かなかった。
 恐がるよりなにより、しなくちゃいけないこと、考えるべきことが多すぎたから。

「ティバーン……忘れるな。俺は鴉王だ」

 低い声でそう言って、分厚い胸板を押して離れた俺に、ティバーンは驚いた顔をしていた。

「もう、あんたの後ろを付いて回っていたガキじゃない」
「おまえ……」

 俺の変わりように落胆したんだろう。ぎこちなく距離を空けたティバーンは信じられないものを見た表情で俺を見た。
 俺もティバーンを見返した。あのころにはすっかり身についていた「鴉王」の表情で。
 あれが、俺にとって幼いころの自分との決別の儀式だった。
 裏切りが性の鴉は狡猾で信用ならない――。
 そんな評判が立つのに時間は掛からなかったな。俺が鴉王を継いだ時点でそんな評判はもう立っていたわけだし、俺がそれに輪をかけてタチの悪い王だったから。
 最初は大きすぎた王者の腕輪も、いつの間にかしっくりと合うようになった。
 リュシオンは何度も手紙をくれた。でも、返事はしなかった。もちろん、わざとだ。
 俺はわがままだな。
 ずっと俺のことを怒っていて欲しい、忘れて欲しくないと思うのと同じ心で、俺のことなんかに心を煩わせずに、少しでも幸せに暮らしていて欲しかった。
 ……家族もなにもかも失ったリュシオンから「幼馴染」まで奪ったのは、他ならない俺自身だったのにな。
 そうしているうちにデインとクリミア間で戦争が起こった。静観に徹するつもりだったらしいベグニオンの仕事が少し減っていたのと、狂王と呼ばれるアシュナードの軍勢を偵察して報告しろと命令されて、今度はデインについた。
 狂王が実力さえあれば生まれも育ちも、種族すら関係ないって考え方だと聞いていたから、取り入りやすそうだってのもあった。
 あの狂王に初めて会った時のことは今でも覚えている。
 ラグズの俺が正面から謁見を申し込んで叶うはずがない。ずっと様子を伺っていて、夜、庭に出てきたところを捕まえようと思ったんだ。
 まず、王の騎竜が轟音のような声で吼えた。驚いたね。それまでほとんど気配を感じさせなかったことにもだが、普通なら騎竜は部下が竜舎で世話をするもんなのに、まさか王の部屋の中から出てくるとはな。

「珍しい客が現れたようだな。こそこそとわしの周りを嗅ぎまわっていたのは貴様か」
「………気配を消すのは得意と思っていたんですがね」
「どれほど闇に紛れようが、このラジャイオンの鼻はごまかせぬ」

 喉の奥で笑って傍らの騎竜の鼻面を撫でると、なんとその騎竜は牙を剥いてアシュナードの手を払った。
 これにも驚いたさ。普通、騎竜と騎士…いや、アシュナードは騎士じゃないが、それでも騎竜が乗り手に反抗することはまずない。一心同体の相棒関係なのが普通だからな。
 騎竜を力ずくで従えてるのにも驚いたが、その騎竜が馬鹿でかいことにも驚いた。噂には聞いていたが、通常の竜騎士が乗る竜の倍は大きい。

「降りて来い。鴉王」

 やれやれ。正体もばれちまってるのか。
 仕方がない。
 黙ってアシュナードの前に降りると、ずっと唸っている騎竜が巨体を揺らし、俺に向かって吠え掛かった。

「!」

 聞いた者の耳から全身を恐怖で震え上がらせる、本能に訴えかける咆哮だ。
 しかも、全身にかかった息が血生臭い。それも腐臭さえ帯びていて、俺は慌てて鼻と口元を覆って後退った。
 こいつ…本当に、竜か!?
 俺の知ってる竜の咆哮とは迫力が違いすぎる。そう思ってしばらく目を瞬いたね。
 俺が腰を抜かさなかったのは、ただあいつらに神経と面の皮を鍛えられたからだ。
 黒竜王とは面識があったし、もちろんほかの竜鱗族のことも知っていたが、あいつらの化身姿には縁がなかった。
 もちろん、赤竜と白竜は知ってる。でも、黒竜の化身姿は知らなかった。王族しかいないんだから当然といえば当然だ。
 だから純粋に、一体この男はどこでこんな竜を手に入れたんだ? そう思いながら面白そうに自分の髭を撫でるアシュナードの様子を伺っていると、アシュナードは、さて、どう話を繋ごうかと迷う俺に言った。

「鴉の王か……。なるほど。では、貴様が鴉で一番の強者というわけだ」
「ええ、まあ一応は」
「なにが目的だ?」

 力さえあれば取り立てられる――。そんな評判に踊らされた連中は、阿呆だ。
 アシュナードを前にして思った感想が、それだった。
 長居しない方がいいな。そう判断して手短にデインの傭兵として使って欲しいと願い出ると、アシュナードは拍子抜けするほどあっさりと承諾して、吹っ掛けた前払いの報酬もその場で俺に手渡しやがった。

「鴉の王を我の配下とするのも面白いかも知れぬな」
「報酬をお支払いいただけます限りは働きますよ。傭兵としてね。ですが、直接あなたの配下となることはできません。これでも王ですから。ご容赦願いたい」

 それから俺たちキルヴァスも参戦することになった。もちろん、デインだけじゃない。クリミアの軍勢の動向も探りながらだ。
 あの戦争の時はいろいろあったな。まさかリアーネが生きているとは思わなかったし、あれほど憎んだニンゲン…ベオクに協力してデインを裏切るはめになるなんて思いもしなかった。
 いろいろと思うことはあったさ。
 アイクが信用できるかどうかなんて、本当はどうでも良かった。
 ただ、リュシオンが信じた。理由としちゃそれだけで充分だ。
 デインの報酬が懐に入らなくなるのは正直痛かったが、それまでにずいぶん稼がせてもらったしな。
 失敗したと思ったのは、この件でせっかく距離を空けていたティバーンがまた俺に絡んでくるようになったことだ。
 参った。ったく、懲りないというかなんというか……いくら鷹が暑苦しくても、リュシオンのことでさすがに愛想を尽かしただろうと思っていたのに、あれも結局赦されたしな。
 あぁ、もちろん宣言通りキルヴァスくんだりまで挨拶に来やがった時には、二、三発は殴られる覚悟をしていたんだぜ? だが、それもなかった。
 ただまあ、リアーネを助けなきゃならないような急場だったし、話の途中で俺が「あんたがついていながらなにをやってるんだ!」なんて怒っちまったから、拳を振り上げたくてもできなかったのかも知れないが。
 ベオクの英雄の凱旋を見届けてから帰る途中、「またフェニキスにも遊びに来い」なんてふざけたことを言いやがって、リュシオンには尊大に、リアーネには無邪気に誘われて困ったさ。
 もちろん、フェニキスには行かなかった。鷺の二人がガリアに移ってから、ガリアに様子伺いに行っただけだ。まあその時にはなぜかティバーンのやつもいて、うっとうしかったんだが。訊けば、しょっちゅうこうして遊びに来ていたらしい。
 リュシオンは国を離れても変わることなく会いに来てくれたと感激していたが、ティバーンの方はガリアの酒が目当てなだけだと俺は睨んでたね。
 ティバーンが来る度ににこにこよろよろとリアーネが酒瓶を抱えて来るのがいい証拠だ。
 あのころの三年間は、まあ平和だったな。どの国も大きな揉め事はない。
 だがキルヴァスとしては、また頭の痛い日々に逆戻りだった。なまじ一度比較的ましな状況を味わっちまったもんだから、きつかったね。精神的には。
 平和な時ほど退屈するもんだ。しかもこのころには元老院内部での権力争いはなりをひそめ、皇帝と揉めていたんだからな。
 いよいよラグズ連合として宣戦布告が行われた時には、妙に達観した気分になった。
 あいつらは、莫迦だ………。俺たちを、俺を信用して相談を持ちかけてくるなんて。
 ラグズ間で話し合われた内容はほぼ全て元老院に渡る。もちろん、渡すのは俺だ。
 なるべくはぼかしたりばっくれたりしたかったが、ルカンはそういった方面で嫌になるほど抜け目がない。嘘をついたのがばれたら後が恐いから、情報の改ざんも難しかった。
 日頃の悪評を利用して会合をさぼろうにも、ルカンに命令されたんじゃ出るしかない。どうしようもなかった。
 それでもずっと連合への参加は突っぱねていたさ。……結局、どうにもならなくて言われるがまま、裏切るために参加する羽目になったが……。
 それからのことは、ただ感情を殺すことが俺に出来る最大限の努力だった。俺を信じるな。背後に気をつけろ。
 どんなに言ってもティバーンは取り合わないし、せめて獅子王か、聡いジフカに匂わせたくても、ガリアにはリュシオンとリアーネがいる。
 正直、あの二人に嗅ぎつけられないほど心を閉ざす自信がなかった。もちろん完全には読ませないにしてもだ。
 俺の様子がちょっとでもおかしいと感じたら、即ティバーンに連絡しやがるからな。そうなったらいっそう面倒になる。
 打ち合わせを繰り返す内に思いがけない偶然から宰相であるセフェランに会えて大きな情報を得たが、それを活かす間もなくサナキが監禁された時は女神さえ呪いたい気持ちになったさ。
 結局、俺は、間に合わなかった。最後までティバーンには勘付いて欲しくてあれこれ言ったんだが、駄目だった。俺の悪態に馴れ過ぎちまって、また俺の憎まれ口が始まったぐらいにしか思われなかったみたいだからな。
 補給部隊を装ったベグニオンの中央軍と戦うために、先発で降りる鷹を…ティバーンの背中を見ながら、撤退の号令を掛ける自分の声は、恐ろしく冷静だった。
 鴉の中には泣いている者もいた。俺に食って掛かる者もいた。
 だが、逆らうことは赦さなかった。それが力ずくでも。
 ……ただ、ティバーンには言っていないが一つだけ、知らなかったことがある。
 フェニキス本土への奇襲だ。
 離れ小島に食料と、医薬品は置いておいた。なんとなく、元老院の連中がこんなことだけで満足するはずがないと思っていたから。 
 俺に下された最初の命令は、フェニキス兵をおびき出し、鷹王を墜とすこと。キルヴァス兵はベグニオン兵に協力して戦うこと。
 これは突っぱねた。鴉の戦闘力を俺はよく知ってる。ベグニオン兵に協力して共闘しろと言われても、連中には翼がないんだ。結局鳥翼同士の戦いになる。
 ましてフェニキス軍はティバーン率いる精鋭揃いだ。そうなるとこっちに勝ち目はない。
 なにより、冷静に考えて俺ではティバーンを墜とせない。そう答えた。
 まあ、手段を選ばなければティバーン一人だけならどうとでもできたろうがね。
 懐に入れた者には甘いあいつの性格を利用すれば、俺の素早さなら、墜とせる。それが卑怯だからできないって意味じゃないぞ。ティバーンを墜とすのに成功したところで、その後の問題が大きすぎるんだ。
 鷹はいよいよ俺に、俺たちに憎悪を募らせるだろう。獅子王、黒竜王の怒りすら受けることになる。
 そうなるとやっぱり鴉は滅びるしかない。それだけの理由だった。
 もちろん、断るに当たってはいろいろ言われたしされたりもしたが、いつもならなにかしら無理なことをさせるくせに、今回はあっさりと引き下がった。
 そこでなにかあると踏んだんだ。離れ小島に準備をして、事前に最近怪しい動きがあるようだということもウルキの耳に入るところで呟いておいた。
 当たって欲しくなかったね。これだけは、当たって欲しくなかった。
 俺が全てを知ったのは、ルカンに報告してキルヴァスに戻ってからだ。
 ……終わりだ。そう思って俺の代の最後になるだろう日記を書き上げ、これからのことを慌しくニアルチとシーカーに命令して、ベグニオンに向かった。
 呼び出しに応じた俺に下された命令は、覚悟していた通りのものだった。
 なんとしても、ティバーンを墜とせ。たとえ、キルヴァスの鴉全てが死に絶えても。
 なんとか断ろうとした俺に向けられた折檻は苛烈を極めたし、今回は治療のリカバーもかけて貰えなかった。そして、命令の撤回も得られなかった。
 もう腹をくくるしかない。でも、俺が死ねば印は誰に行く? ……わからない。
 意識が朦朧とする中で、三人目の奴隷が目の前で死んだ時、俺はとうとう受け入れた。
 俺は、俺の民にとって良い王ならそれでいい。
 でも……それは、ティバーンを…鷹の民を殺してでも、鴉の民全ての命を一時永らえることを選ぶ王のことか?
 誇りなんてとうになくした。誇りで食えるのは霞ばかりだ。
 そう教えてきた俺が……。
 痛みより、ずっと長い間自分に問いかけ続けたことの答えも見つからないまま、それでも俺はあの瞬間、本当にやつらに屈したと思った。
 本当に酷い傷を負っていたし、最近では杖で回復されすぎて自力だとなかなか傷が治らなくなってたからな。
 俺のなんだか奴隷のなんだか、わからない血にまみれた床の上に無様に転がった俺を捨ててルカンたちが出て行き、俺は這うようにして息絶えた鴉の奴隷の一人一人の目をなんとか閉じさせた。
 どうせ決断するなら、早い方が良かったのにな。可哀想なことをしちまった。
 だが、少しだが時間は稼げた。今回、傷を治して行かなかったってことは、最低でも動ける程度にはこの傷が癒えるまでの猶予があるはずだ。
 詳しい期限も聞いていない。つまりそれは痺れを切らせない程度に急げってことだから、本当の意味で時間が稼げたとは言わないだろうが。
 とにかく、動けなけりゃ話にならない。上着の隠しに入れた特効薬を翼に掛けてなんとか飛べる程度まで体力を回復させていると、部屋にヘッツェルが入ってきた。
 慈悲深いようなことを口先では言いながら、実際には自己保身が至上命題のどうしようもねえニンゲンだ。だが、感謝したね。
 慌ててもう一度倒れて、虫の息のふりをしてすすり泣く俺を哀れがってこっそりリカバーを掛けてくれたことじゃないぞ。

「ここまでするとは、ルカン殿は正気とは思えん。皇帝陛下を我がアニムスの塔へ移せとまでおっしゃるし、まったくどうしたものか……」

 そうだ。サナキの情報が出たからだ。
 動揺が顔に出ないよう、さも哀れっぽくよろよろと身を起こすと、俺はまだガキのころからこの男の前でだけちらほらと見せてきた気弱な表情を作って言った。

「ヘッツェル様がお一人でなさるのですか? 親衛隊の目をごまかすのは難しいのでは……。マナイル大神殿からでしょう? 俺なら闇に紛れられますが」

 サナキはマナイル大神殿にはいない。これは俺が調べて回った結果、得た確信だ。ここで出したのは賭けだった。
 わざと浮かべた涙を零して拭いながら言うと、ヘッツェルは懐から出した絹の手巾を俺の頬に押し当てながら言いやがった。

「いや、実はサルモーのファーモ神殿なのだ。だから親衛隊の目はごまかせよう」

 サルモーのファーモ…! 闇を司るあの神殿か!
 よし、場所さえわかればあとはなんとかしてみせる。
 だが、腐ってもこの男も元老院議員だ。ここで喜びを見せないよう、俺は深い息をついて「そうですか……」と頷いた。
 そんな俺が殊勝に見えたんだろうよ。ヘッツェルは折れていた俺の脚にそっと手を乗せていかにも好々爺然とした表情で続ける。

「なにより、闇夜を恐れるそなたに任せるのは可哀想だ」
「ヘッツェル様……ありがとうございます」

 よく言うぜ…!
 俺が王になったばかりのころ、情けない話だがまだ俺は夜も、雷も恐かった。
 それは言わば鳥翼族なら誰もが持ってる習性みたいなものだ。
 鳥翼族の奴隷を持っているから、それを知ってたんだろうよ。こいつらは絶対に実現不可能な命令を下しやがって、俺がどうにもできなくて青い顔をして侘びを入れに来るのを待って、「罰」と言って一番高い塔に俺を閉じ込めやがった。
 それもご丁寧に大嵐の夜にだ。
 あるのは大きな窓だけの小さな見張り小屋だ。本当だったら鎧戸を閉めておくところをわざと外し、カーテンもなく、ガキだった俺は恥も外聞も投げ捨てて泣き喚いて赦しを乞うた。
 鳥翼族なら普通は部屋の奥で息を潜めて嵐が過ぎるのを待つものだ。よっぽどのことがない限りはな。
 凄まじい風で窓が割れて破片混じりの雨風に襲われながら、狭い部屋の中を逃げ回ったことは一生忘れない。
 その時もこいつは言った。「可哀想だ」と。
 結局見ていただけだ。こういうヤツの見せ掛けの優しさには本当に反吐が出る。
 まあ、その嵐にもだんだん馴れたがね。それこそつまらないことを命じやがって、わざと嵐の夜に海の上を飛ばされたりもしたからな。

「さあ、もう帰るが良い。ルカン殿の様子ではそう長い猶予はなかろうが、ラグズのそなたならばそれほど時を置かずに傷も癒えよう」
「はい……」

 癒えねえよ。杖の使い過ぎだ。そんなこともわからないかね?
 言ったって仕方ないし、弱ってるように見せてはいたが、伊達に神官じゃないんだな。実際にはこの男が使ったリカバーの力で重要な部分はどうにか癒えた。
 だから俺はキルヴァスに帰ると言って、それはもう哀れな様子でベグニオンを後にした。見ていないようで、ルカンは俺の動向を伺ってる。もちろん、その監視が取れるまで充分距離は空けたとも。
 念のためシーカーに俺の影をさせ、キルヴァスに帰らせて、俺自身はサナキの救出に向かったんだ。
 我ながら切羽詰ってたな。とにかく、証拠は残せない。
 俺の仕業だとばれたらそこで呪いの病が発生するかも知れないんだ。
 ただ見張りは少なかったから助かった。多少の傷は負ったがどうにか軟禁されたサナキを救出することに成功して、配下にしてもらって……。後始末をつけるまでの間だけでも、生き長らえることができた。
 それを実感したのは、サナキにつまらないことを命令されて手首の印が光を帯びた時だ。

「ええい、よろよろと不安定な! シグルーンほど綺麗にとは言わぬが、もう少し揺れぬよう飛べぬのか! これは命令じゃ!」

 あんまり落ち込んでいるから、ユクの花の話をして慰めた後だな。べそをかいたのが照れくさかったんだろうが、無茶を言う。いくらリカバーで回復されたとは言え、本来だったら俺は一人で飛ぶのもやっとの状態なんだぞ?

「おおッ? あ、危ないではないか!」

 そう思いながらなんとか姿勢を保とうと苦労していると、左の手首が熱くなった。思わず背中のサナキを転がすように右腕に抱えながら化身を解いて確かめると、あの忌々しい印が左手首でぼんやりと赤く光っていた。
 確かに、サナキを誓約の主だと認めた証拠だ。

「これ! 聞いておるのか? これ!」

 ……涙が出そうだった。
 だが、安心ばかりは出来ない。今下された命令は「揺れないように飛べ」だ。
 そうしたくても傷が重くて果たすことが難しいから、赦しを得なくちゃならない。
 らしくなく痛む鼻の奥に軽く首を振って、俺は怒っていたくせにだんだん心配そうな顔になったサナキに言った。

「聞いている。すまないが、揺れないように飛ぶのは今の俺には無理だ。もともと他人を運ぶのは得意じゃないし、今はあちこちに怪我をしているからな」
「なんと! 痛むのか!?」
「あぁ、まあ……どこかどう痛いか説明できない程度にはね」

 仰天したサナキはぺたりと俺の額に触れて「熱が高いではないか!」とまた怒り出し、がさごそと自分の懐を漁った。
 だが、なにもなくて。唯一入っていた小さな飴玉を見つけると、それを俺の口に放り込みながら言ったんだ。

「そ、それはのう、よおーーく効く、痛み止めじゃ! 嘘ではないぞ。セフェランがそう言って幼いころにわたしにくれたこともあるのでな。絶対に効くじゃろう」
「………そんなありがたいものを俺がいただいてよろしいのですかね?」
「わたしが放り込んだのじゃから良いに決まっておる! それから、もう少し月に向かって飛べ。このままの進路では竜騎士の見回りに見つかるやも知れぬ。とにかく聖天馬騎士団の誰かに会わねば…!」

 どう味わっても蜂蜜味の飴だが、本人の意思を尊重して口答えせずに舐めながら話を聞いて、俺は指示された通り月に向かって進路を変えた。
 サナキが聡い子どもだったのは本当に幸運だったね。部下のこともよく知っている。半信半疑で導かれるまま飛んだところで本当に聖天馬騎士に会えた。
 それも副隊長であるタニスだ。もう口止めもされていない。主はサナキだ。遅れてシグルーンも現れ、許しを得てかいつまんで事情を説明すると、サナキは俺の傷を心配して命令があるまでキルヴァスに戻っていろと言ってくれた。
 俺は、本当に本心から言ったさ。

「皇帝サナキ……どうか無事でいてくれ」
「わかっておる。そなたはまず傷を癒せ。わたしが呼んだ時に動けぬなどということがないようにな」

 心強かったね。
 月明かりじゃほとんど見えないが、サナキも、そのサナキを今度こそ守ると誓った聖天馬騎士二人も。
 俺はついていられない。あとは信じるしかない。
 なにより、この後サナキが向かうと言った場所にはティバーンがいる。あいつならきっとサナキの身を守ってくれるはずだ。
 結局あいつに助けられてるんだな。俺は。
 自嘲する思いでなんとかキルヴァスに帰って倒れ、二日間、俺は起きられなかった。
 呼び出しは今日かも知れない。明日かも知れない。
 それまでの間にこの誓約を解除するに当たって書き残したことをすべて書いて、俺はサナキからの呼び出しを待った。
 戦況がどうなっているのかは逐一報告させてはいたが、万一のことがある。ましてあのデインの渓谷で待ち伏せを食らってクリミア軍が壊滅したと聞いた時には、本当に肝が冷えたね。待ち伏せを受けたのがサナキだったからだ。
 そして、いよいよデインとの総力戦になった時、呼び出しが来た。久しぶりに印が赤く光った時は、これがサナキからのものであるようにと祈るような思いで飛び立った。
 連合軍には今、ヤナフとウルキがいる。誓約を逃れる術がどうやら見つかりそうだとわかったら、俺も現金だな。できればこの戦が落ち着くまでは見つかりたくないものだと思いながら飛んで行くと、ご丁寧に途中まで迎えが来ていた。しかも聖天馬騎士団副隊長のタニスだ。
 一応、俺の立場に配慮してくれたらしいね。頭からすっぽりと外套を被せられて翼も隠して天馬に乗せられ、サナキの元に連れて行かれたんだ。
 おかげで見つからずに済んだが、天幕から一歩も出るなと言っていたくせに、いざ戦闘が始まるとあれこれさせられたのには笑った。
 それでも、この戦いが終われば次はいよいよベグニオンだ。
 いつまでもこんな風に逃げ隠れしてはいられない。鷹か獣牙に見つかればその場で八つ裂きにされるだろうが、できればサナキがちゃんと復権できるまでは見届けられたらいいのに。
 そう思っていたから、後の展開には心底驚いた。
 簡単に八つ裂きにできないほど怒りが深かったってことだろうが、顔を見たその場で俺の命を奪わなかったティバーンにも。
 女神の塔の中でのことは、まだ忘れていない。いろいろなことがあったからな。
 実は、今でもわからないことがある。
 ティバーンの変心のことだ。
 塔に入る前には確かにあった殺気が、出てきた時には消えていた。
 あれは俺の気のせいじゃない。
 最初はお互いに視線も合わせなかった。戦いの最中だ。私情で動いて良い状態じゃなかったからな。
 だが、ルカンに会って、あそこでいろいろ言われたから、余計なことを考えるようになったんだろうよ。俺としちゃ血の誓約の証文を取り返せた時点で終ったようなものなのに。
 ティバーンよりも露骨に俺に対して怒りを向けていたスクリミルが、次の間へ続く階段を上りながら俺に言った。

「おい、貴様! 巫女とデイン王の話で事情は大体わかったが、どうして言わなかった!? むざむざ貴様を殺すところだったではないか!」

 おい、本当に話を聞いていたか? 誓約の話を漏らすことも禁忌だったんだぞ?
 呆れはしたが、その口調にもう欠片も殺意がないことがわかって、俺は答えに詰まった。

「スクリミル〜! だから、それを言ったらその場で終わりだったんだって! 鴉がみんな死んじまうんだって! だから鴉王は誰にも相談できずに抱え込むはめになったんだろうが! ちゃんと聞いてたか!?」

 ライの説明は簡潔で見事だったな。それでスクリミルは「むう…」と情けない顔をして唸り、人型のまま吼えて鬱憤を晴らしながらずかずかと長い階段を上っていた。
 ティバーンは…まだなにも言わなかったな。ただ次の間で気がつくと近くにいて、目が合った時にまだやれるかなんて訊かれもした。
 リュシオンのそばを離れてなにを考えてるんだ? あの時は不思議に思ったものだ。そう言えばサナキとリュシオンがいっしょにいることが多くなっていて、仲も良くなっていたな。
 まあ、それでもこの時は顔ぶれから考えて、ティバーンと俺が前衛担当なのは当然だからだろうと思っていた。
 アイクが漆黒の騎士を倒して進んだ次の間には竜鱗族がいた。いよいよ正念場だ。
 竜鱗族の戦闘力は桁が違うからな。いくら女神の加護を受けた身体でも相当の覚悟が必要だ。
 特に赤竜の鱗は鋼を凌ぐ硬度を持っていて、鴉の俺が張り合うにはいちいち「滑翔」が出せるように隙を伺わなくちゃならない。殴り返されたら死にかねない状況だった。
 そこでいよいよティバーンに言われたな。

「おい、ネサラ! 俺の傍を離れるな。護りづらいじゃねぇか」

 な、なんで俺を庇いに来るんだ? たまげたなんてものじゃないね。あんたが守るべきは後ろ…じゃないな。アイクたちと突撃隊に加わってるリュシオンじゃないのか!?
 だが、ここでなにか言ってリュシオンに睨まれるのも嫌だ。しれっとなんでもない顔で答えたが、頭が痛かったな。
 それに、そんなことに関わってやりとりするような時間はなかった。なんと言ってもあの黒竜王と戦わなくちゃならなかったんだからな。
 クルトナーガ王子は最後まで説得すると言って聞かなかったが、当然説得は無駄に終った。それでもほかの竜鱗族同様、王子相手になんの抵抗もしない辺りは、あの石頭の黒竜王も人の親なのかと思ったものだが。
 俺も一応挑んださ。俺だって王だ。自分だけのことなら間違っても黒竜王にケンカなんか売りはしない。勝てないケンカはしない主義だからな。
 だが、勝てないことがわかっていても、民の命が掛かった場面で逃げたりはしない。文字通りこてんぱんにされたがね。
 かわすこともできなかった。お人好しなティバーンに担がれて退避させられて、同じく大怪我を負ったくせに、懲りずに戦意を漲らせた目で黒竜王を見上げるスクリミルと並んで杖を使われながら、さすがは黒竜王だと感心したさ。
 ライも吹っ飛ばされていた。アイクも、ティバーンでさえもだ。傍らに仁王立ちしたガトリーにほかの竜鱗族の攻撃を凌がせながら、シノンだけはブレスの届かないところから見事に鋭い一撃を何度も浴びせていて、それも感心したな。
 もしも敵に回ったとして、俺たち鳥翼族にとって一番恐ろしいのはこの男だと思った。
 そして、なんとか勝てた。前線に立った俺たちはもちろん、回復と他の竜鱗族を防ぐことに必死だった魔道士たちも疲労困憊してなかなか立ち上がることもできなかった。
 まさか、あの黒竜王に勝てるとはな……。最後の一撃は、傷ついた俺たちを見て涙を振り払ったクルトナーガ王子だった。
 子が父を越えた瞬間か……。いや、あの石頭の頑固親父め、俺たちの時と違って、王子の渾身の一撃の時に一切の防御をしなかったから、そうとは言えないな。
 膝をついた黒竜王の様子で、俺も、ティバーンも、もちろんリュシオンも……これでお別れだとわかっていた。
 別れは悲しいが、でも最後に言葉を交わせるのはちょっとうらやましかったな。俺は父上と最後にどんな会話をしたかも覚えてないからな。

「…………」
「ネサラ。行くぞ」

 あの部屋に残してきた黒竜王の気配が消えた……。
 それがわかって思わす振り返りそうになった俺の肩を、ティバーンが抱く。まるで昔のように。
 石頭だし、頑固だし、べつに良い思い出はないんだが、それでもな……。偉大なる竜鱗族の長の死は、一つの歴史が終ったような感慨を俺にもたらした。
 そして、あのセフェランに会って確信した。ティバーンは俺を赦しちまったのだと。まああのセフェランがまたティバーンやスクリミルがいるにも関わらず、余計なことまでしゃべりやがったこともあるが。
 ……莫迦だな。後で苦しむのは自分だろうに。
 事情がわかったからって、簡単過ぎるだろ。そこがわからない。
 あの男のことだ。
 なんでもっと早く気がつかなかったんだろうとか、俺さえしっかりしていればとか、そういうことで自分自身を責め始めたってことかも知れないが、それにしてもな……。
 それから戦いが終って、俺の処遇が決まるまでの騒動は今思い出してもうんざりする。
 あれでわかったのは結局は自分が一番大事だというティバーンの身勝手な性格だ。
 俺を助けたい? 幸せにしたい?
 はン、ただの言い訳だろ。要は俺に死なれたら後味が悪いってだけだろ?
 そこはティバーンが王として間違ったと今でも思っている。
 なまじ雛のころからの付き合いだから、いざとなった時に俺を手に掛けられなくなるんだよ。
 王なら、けじめはつけるべきだ。俺たちに事情があったことを知って、もちろん鷹の民も、獣牙の民も同情はしたさ。でもそれだけで済む問題じゃないだろ? だから、鴉の娘があんな目に遭った。これはたまたま表に出ただけだ。
 だからこそ、全ての罪を抱えて憎しみを引き受ける悪役が必要なんだ。「鴉王」以外に相応しい者はないだろ。
 だが、ティバーンは俺を生かす方向で譲らなかった。挙句があの反乱騒ぎだ。情けないにもほどがある。
 ………もちろん、生き延びることが決まっちまったからこそ、できるだけのことはする気持ちではいるが、本心では俺は今でもティバーンの決定に納得してはいない。
 でも、今はもう俺の王だ。従うしかない。
 そう…思ってたんだ。
 でも俺は、ティバーンに触れられるのが嫌だった。
 本当に嫌だったんじゃない。
 その…居心地が悪いというか。あいつに触られたらもぞもぞするっていうか、落ち着かない。
 おかしいな。まるでガキのころに帰ったみたいだ。
 抱きしめられると、いつまでも胸元の匂いを嗅いでいたくなるような……。それが嫌だったんだ。
 だってそんなの、いい歳の大人がおかしいだろう?
 まるで…幼いころ、ニアルチに聞いたおとぎ話みたいじゃないか。
 恋物語だ。俺にはまだ早いと言いながら、ニアルチは楽しそうに読んで聞かせてくれたものだった。
 そばにいたくなる。離れたくない。なのに、離れたい。
 まさかと思った。何回も打ち消した。
 だって、誰よりも俺が苦しめたんだ。ましてあんな暑苦しい男なんて嫌に決まってる。
 そう考えて、愕然とした。
 誓っただろう、俺は!
 俺は、生涯誰かに寄り添ったりしない。鴉を守り、生きていく。
 それが今は鳥翼族すべてになったけど、でもそうしなきゃいけない。
 多くの者を救えなかった。何度も見殺しにした。
 死んでしまったのは奴隷だけじゃないんだ。
 幸せになりたかったのはみんなそうだろう!?
 それなのに、自分の心から生まれたものに俺は恐怖まで感じた。
 一瞬でも、ティバーンの手に触れられてうれしいと感じたことも、幸福感さえ過ぎったこともだ。赦されない。
 目を逸らして、必死に逃げて、でも、その気持ちは俺から消えることはなかった。
 今回の騒動が引き金になったのは間違いないな。
 でもきっといろんなことがあったから、しかもガキのころみたいに助けに飛んできやがったから、引きずられただけだ。
 終ったら、離れればいい。いっそデインに赴任してしまえば落ち着くか?
 くそ、それにしてもニアルチでも嘘をつくことがあるんだな。
 恋をすれば、幸せな気持ちになれると言っていた。その人のことを思うだけで胸が満たされて、溢れるような幸福に泣きたくなると。
 それなのに俺が感じたのは、痛みだ。
 それから後悔……だな。
 俺は、弱い。それがわかってるから、ティバーンに惹かれる。
 身体を清めた後、忍び寄った水に捕まりそうになって光の術符を放ちながら、俺は自嘲の思いでいっぱいだった。
 さて、これからどうしようか。
 とりあえずこの騒動が終っても、なるべくは顔を合わせない方が良いな。余計な時にばかり目ざといあの男のことだ。こんな気持ちがばれたら絶対にからかわれるし、調子に乗る。
 それだけは嫌だ!
 なにより鷺たちのことだってあるからな。次から次へと、頭が痛いったらありゃしない。

『……?』

 おかしいな。声が出ない。
 そういえばさっきまで誰かいなかったか……?
 ここは…どこなんだ?
 視界が揺れる。
 あんなに寒かったのに、もう寒さは感じない。
 もう痛くない。苦しくない。淋しく…ない?
 あぁ、なんだか懐かしい温もりに抱かれてるみたいだ。
 遠くから聴こえてくる唄に引き寄せられて、それに近づくたび、俺の意識は少しずつ金色の光に飲み込まれた。
 腕輪の守護石が点滅して、やがて青い光が消えた。

「まも…る……」

 しゃがれた声で呟いた。
 おかしいな。もう思考もまとまらない。
 俺は…どうしてここにいる?
 俺は誰も助けられなかった。
 セリノスで鷺たちが殺された時も、その後も、なにもできなかった。鴉王に訴えても動いてもらえなかった理由は、自分が鴉王になってから知った。
 もう二度と俺は同胞を傷つけない。同胞を傷つける者を赦さない……。
 そう思うことでしか、あのグリトネアで知った事実を、自分の苦しさを消化できなかったんだ。
 そうだ。だから…戦うためか……?
 だって俺もラグズの王だ。なによりも俺の償いはやっと始まったばかりなんだから。
 泥の兵士はもうほとんどいない。俺の光の術符で崩れ落ちた。もう謡えなかったが、それでも充分だ。
 今は騎士たちがいる。
 懐かしい鷺の唄が聴こえる。悲しい唄だ。ただ深い悲しみは、俺の全てを染めた。
 泣くなよ。俺は還って来たじゃないか……。
 約束しただろう? キルヴァスに帰る時に、またいつか森に帰っておいでって。俺は帰るって言っただろう?
 無数の冷たい腕に抱きしめられた。まるで見えない水に溺れるように、俺の意識はどこまでも沈んでいく。
 だけど終わりのない闇の中なのに、手を伸ばすといつでも触れる不思議なぬくもりがあった。
 緑を帯びた金色の……あたたかな……。
 良かった。ここにいた。
 そのぬくもりを抱きしめて、俺は荘厳な響きで俺を誘う旋律に身も心も委ね、ただ深く目を閉じた。







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